効率と経営と、そして教育と
明治時代、日本は日清戦争に勝利したものの、三国干渉によりリャオトン半島を変換せざるを得なかった。
このとき、「悔しさを忘れるな」ということでキャッチフレーズに採用された言葉が「臥薪嘗胆」である。
さて、私たちの塾で「臥薪嘗胆」といえば、俗にいう居残りの時間である。
宿題の未了分と小テストの不合格者は完了させてからの帰宅となる。
これだけ見ると、何度と思いがちだが、侮るなかれ、10時くらいまでは当然のように残る生徒も少なくない。
初めに申し上げておきたい。
私は、この「臥薪嘗胆」という制度は好きではない。
一定程度の強制力を持つこの制度は、根っからの“自由人”として育ってきた私は、
必ずしも好むものではないのだ。
ご入会に際してご案内すると、「そんなに長時間、集中できるんですか?」と必ず聞かれる。
小学生の集中力が持続する時間は決して長くはない。
ご指摘はごもっともだ。
また、この制度、提供する側が「早く自分も帰りたいから」と負荷を緩めれば、そもそも成立しない。
それだけではない。
表現はきつくなってしまうが、成績が必ずしもよくなかったり、宿題を完了できない生徒のために、
コスト割いていくこの制度は、経営的に見ればナンセンスでもあるのだろう。
悪いことばかりを書いてしまった。では、なぜ、この制度を続けているのか。
それは、ここに教育の本質の一端があると考えているからだ。
「自分ができること」だけを、「自分のペース」でやっても人は成長しない。
「超えられるか、超えられないか」の目標設定に向かって、取り組んでいく必要がある。
また、自分の能力と時間との関係については、コントロールできた方が人生を豊かにするだろう。
そうしたことを気づかせてくれる機会は必ずしも多くなく、仲間と机を横にする中で、自分なりに感じていくことだろう。
言われて、読んで、理解し行動に移せるほどの聖人君子は決して多くはない。
これを繰り返していく中で、確実に成長していくのである。
自由を享受する素養が身についていく。
先日の出来事。翌日にイベントを控えていたため、20時に解散した。
しかし、多くの受講生が、それでは平日に苦労するからと、自主的に残り、小テストを完了させて帰った。
私たちはこのような場面を切望していたのだ。
幸いにして、職人気質なスタッフが多く(誰のことかはすぐわかると思います。)、与える課題は胡坐をかいて終わるものではない。
終わらなくても、できなくても、自分の能力と対峙していくこの時間は、まさに教育の本質なのだろうと考えている。
効率だけで、教育が成立するならこんなにわかりやすいことはないが、
残念ながら、人間というのはそんなに単純ではないらしい。
理念的なことばかり書いたが、もちろん、最低ラインを担保することができるので、
成績や合格率という目に見える形で成果も上がってきている。
ただ、繰り返しではあるが、点数や合格率よりも、
自分自身と対峙して、取り組んでいくというその姿勢自体の方が、ずっと意味があると思っている。
そういう個人は、入学後も伸びていくし、そういう集団は、卒業してからも仲間としてつながっていくだろう。
とはいえ、全員が完了して、ビール片手にナイターが見れる日が来ることを祈念してやまない。