方法論という方法論
先日、スマートフォンを新しく買い替えた。買い替える必要はなかったのだが、実損がないということで、
新しいもの好きの私は迷うことなく新たな相棒を手にした。
妻も一緒に。
当たり前だが、新しい相棒とは、妻ではなくスマホである(笑)
さて、この相棒にシールなるものを貼る必要性が出てきた。
私は、不器用である。言うまでもなく不器用である。日本で何番目かの不器用である。
普段なら、妻にお願いするところなのだが、生憎、新たなスマホを手に、五島列島の実家へと帰省してしまった。
こうなれば、やるしかない。
自力で張ったシールの出来栄えは…想像するに難くないだろう。
妻の方はというと、人生で一番うまく貼ることができたらしい。
確かに、空気の侵入を許さない見事な画面は、あたかも寸分の狂いのない精緻な職人芸のようだ。
さぞ、後ろのカメラ用、シートもうまく貼れたのだろうと尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。
「何それ?」
そう。彼女は、貼らずして捨てたのである。
皮肉にも苦手な私は、説明書を読み、天下のgoogle先生に上手な貼り方を教わりながら、ものの見事に失敗した。
ただし、一応カメラも保護されている。
他方、妻は、その類まれなる器用さから、自らの腕を疑わず、ものの見事に画面保護シールを貼り終えた。
カメラ保護シートは貼られていないが。
例によって、前置きが長くなってしまった。
そう、「説明書」はちゃんと読みなさいというお話である…わけもなく(笑)
私は、説明書の類は読まなければ気が済まないたちであるのだが、世の中の皆がそうではないだろう。
それはそれとして、反対に、ありとあらゆるものに「方法論」が存在するという幻想にとりつかれた迷える民に出会うことがある。
「問題の解き方」ならまだよい。「勉強のやり方」…これでもまだましである。
「やる気の出し方」、「モチベーションの上げ方」??????
現代人は、時に方法論中毒に陥る。就活生はエントリーシートの書き方を学び、
入社後は、社内資料の作成の仕方を会得する。
プレゼンテーションの仕方、などというものも、TEDなどから身振り、手ぶり、色遣いを学ぶのかもしれない。
でも、果たして本当にそうか・
私は、方法論を否定するものではない。
先人の知恵は、余すことなく、活用させてもらうべきだろう。
ただ、その知恵は自分の知恵ではない。方法論は、方法という道具でしかない。
エントリーシートは、さも困難にぶつかったようなことを書くことが大切なのか、
プレゼンテーションは身振り、手ぶりが重要なのか。
本質は、きちんと本質として認識しなくては、いつしか、方法が目的へと進化を遂げ、
末節の議論に侵略されかねない。
私たちは、進学塾だ。
もちろん、優れた方法論を提供する。
しかし、方法論を知っている者や使いこなすことのできるものを養成したいわけではない。
方法論を知ろうとした、その背景にあるのは、
「やる気」だったり、「情熱」だったり、「信念だったり」、
そんな、ありきたりなカタカナや略語では表せない、ちょっと泥臭くて、ちょっとカッコ悪いかもしれないものであるはずだ。
こうした部分を大きく大きく育てようとする、そんな進学塾があったっていいのではないかと思ってやまない。
とか言って、語っている私も、ちょっとばかりカッコ悪いのだが。