金子みすずからのダイヤモンド
国語の授業をしているときのこと。
金子みすずの「みんな違って、みんないい」が登場。
この言葉、どう解釈するか、どう補うかがかなり難しいと思う。
ダイヤモンドは高価なものである。では、なぜ高価なのか。
それは希少性ゆえに高価なのであろう。
即ち、希少性が認められるからこそ、価値が高いといえるのである。
河原の石も、海辺の石も、みんな違う。もちろんそれでいい。
でも、価値は同じではない。
人間は石とは同じではない。人間に価値の上下はない。
どこからか、こんなそしりが聞こえてきそうである。
もちろん、人間の本質的価値など、数値化できるわけはない。
そんなことは百も承知だ。
ただ、全てにおいて数値化が不可能なわけではない。
人間が社会的な生き物である以上、論理必然的に序列はついてきてしまう。
この時に、価値を発揮するのは“希少性”だ。
コンピューターによってありとあらゆることが効率化、均質化されていく中、
他社と差別化することができることがより一層、要求されるはずだ。
そして、私は、この能力を個性と呼びたい。
さらに、考えてみると、希少性だけでは説明しきれないことがある。
それは、「有用性」だ。
ダイヤモンドの輝きに、人類が(女性がかもしれないが。)、意味を見出さないとすると、
希少であったとしても、必ずしも価値は高くはないだろう。
希少性の前提としての有用性が必要なのである。
「みんな違って、みんないい」
しかし、この言葉に安住することなく、社会に対する有用性を前提とした、
自らの希少性を高いモチベーションによって希求し続ける、
こんな子供たちを、送り出していきたい。
という希少性に富んだ野望を抱く進学塾の経営者である。