あきらめこそ、最大の武器!?
■ 三つ子の魂 百まで
新しいものを手にすると、とりあえず使い倒し、いつしか飽きて
ほったらかし。幼少期からの性分は、そう簡単に変わるわけもなく、むしろ、年をとるごとに、顕著になってくる気さえしなくはない。HPも例に及ばず、気がつけば、更新しないまま月日だけが流れていってしまった。今年こそは、毎週日曜日に更新していこう…と思い筆をとりながら、すでに2カ月が経とうとしているが、とにかく希望として、毎週日曜日に徒然なるままに書いていければと思う。目標ではなく、あくまで希望である。
■ センテンススプリング砲
さて、私が更新を怠っている間にも、巷間を賑わせていたのは「センテンススプリング」である。殊に私が思うところがあったのは、〇ッキ―だ。
当然ながら、「不倫は文化だ」などとトレンディ―俳優を気取って論じるわけもなく、「不倫はダメ、絶対」などと何かのポスターと混同するようなことを言いたいわけでもない。
彼女は、発覚後の記者会見を見る限り、恐らく今回のような休業事態に追い込まれることは予想していなかったであろう。乗り切れると思ったに違いない。もっと、遡ってみると、一年前、彼女がメディアから消える姿を予想できた者はいただろうか。まさに、押しも押されぬ人気者で、CMも多く抱える彼女が表舞台から消えることなど、露程もも思わなかったであろう。
■ 人間に価値などない?
「その自信はどこからくるの?」、小さいときからありとあらゆる指導者とか教育者とか呼ばれる人種の方々に多数いただいた褒め言葉である。確認であるが、褒め言葉である。ただ考えてみると、別に自信があるわけではなくて、失敗した時を想像するだけの力が無いだけなのである。まぁ、その力が備わっていたならば中小企業の経営者などできないのかもしれないが。
あれは、中学生のときだっただろうか。小渕総理が死去されたときのこと。「現役の首相が死ぬなんて…この国はどうなるんだ」なんて随分と大げさなことを考えたものであったが、そんな心配は杞憂に終わり、重鎮の皆様が事を荒立てずに密室で次の総理を決めてくださった。これは、当時の私にとってはそれなりの衝撃で、日本で最も影響力があるのは総理である。総理が死んでも何事もなかったかのように社会は動いていく。ということは、すなわち、自分など死んでも何ら影響ないではないか!という何とも当たり前の真理に気が付いたわけである。
この真理は残念ながら、〇ッキーにしても当てはまるわけで、押しも押されぬはずが、あっさり押し出されてしまったわけである。結局のところ、替えのきかない人間などこの世にほとんど存在しないのであろう。一部、アインシュタインなどの奇跡的な天賦の才を授けられたものは例外として。
なぜだか、人は唯一無二であると誇示しようとするし、これによって自尊心が育まれるような錯覚に陥っている。しかし、唯一無二の存在であれば、それこそ自尊心など関係なく、とてつもない重圧に苛まれることであろう。そう、唯一無二なんて、まして替えのきかない人間なんて、しんどくて仕方ないはずである。唯一無二性を殊更に強調し、押し付けることは、自己肯定感を充足し、いわゆる“リア充”な生活を送ることとイコールではない。
しかし、
安心してください。そんな人いませんから。
弊社は優秀且つ、私以上にぶっ飛んだスタッフによって運営されているので、仮に私が今日、豆腐の角に頭をぶつけて死んでもきちんと運営されていくだろう。いくら少人数による運営であったとしてもである。
そもそも社会や組織というものは、永続した安定状態を希求するものであるから、非代替性を帯びる個人など想定されていない。
私もただのヒト、あなたもただのヒト。
別に、ただのヒトだからといって、無碍に扱っていいと言っているわけではない。よくある茶わんですら「モノは大切にしなさい」と教わるのであって、代替性の議論と取り扱いの議論は別議論である。
■ 自信の正体
結局のところ、「替えはきくのだからやりたいようにやろう」という、「あきらめ」に始点を置いた多少横柄な姿勢が、周囲から見て「自信」に見えるのかもしれない。「どこからくるの?」という問いに対しては、「何のことですか?」が正しい答えなのだろう。そもそも、根拠などないし、自信など持ち合わせているわけでもない。単に、「ダメだったら…」という想像力に乏しいだけの話である。そして、その想像力の欠如は、自分自身に対する没価値性を起点としている。たぶん自信とはそんなものである。特に「揺るがない自信」なんてものは。
「△△ができるようになったので自信がついてきました」なんていう根拠のある自信は、その限りではないのかもしれない。もっとも、できなくなると、その根拠がなくなり、それによって自信がなくなるのであって、そんな相対的なものを「自信」とよぶのかどうかはわからないけれども。
ということで、どこにでもいる(見た目のことでは決してない)、普通の30歳は今日も楽しくいきている。恐らく、自信満々に。